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クアキニ・フィジシャンズ・タワーが完成したのは一昨年。クアキニ病院隣接の
クアキニ・メディカル・プラザに続いて二番目の診療ビルで、こちらはリリハ通りよりにある。
この新築ビルの十一階に二木先生は昨年9月オフィスを開いた。
来布したのは昨年夏。ハワイでの生活は長くはないが、医学部を卒業して研修を受けた沖縄では、
ハワイの医療システムが採用されていたので、ハワイにはその頃から親近感を抱いていた。
生まれは愛知県瀬戸市。医師を志し新潟大学医学部で学んだ。大学を卒業し次は医局に入るのだが、
見聞きする旧態依然の医療システムには魅力を持っていなかった。
「そんなときに、沖縄にアメリカ式の研修をしている病院がある。肉体的には大変だけれど
医者としての力がつく、という話を聞いて、よし沖縄に行こうと決めたのです。
体力的には柔道をやっていましたので自信がありましたし。」
それに冬の長い新潟で学生生活を過ごしていたので、南国への憧れもあった。
二木先生が赴任した沖縄県立中部病院は、沖縄という歴史的事情や、琉球大学に医学部が
なかったこともあり本土のシステムと異なったハワイ大学の研修システムを採用していた。
各科の医長はアメリカで研修医の経験のある医師ばかり。また、毎年県費で十人程度の医師を
アメリカ本土やハワイから招聘しアメリカ式の医療が行われてきた。
「学閥もない、自由な雰囲気で上下関係なく意見を言い合うことが出来ました。
僕は大学の時は外国に興味がなかったけれどおきなわにきてはじめて、
アメリカ式の教育や先生を知りアメリカで勉強してみたいと思いました。」
一年間はインターンとして全科を回り、二年間一般小児科の研修を積んだ。
「小児科を選んだわけですか?うーんやっぱり子どもが好きだからでしょうね。
それに病気に年齢は関係ないけれど子どもの方が何とかして上げたいというファイトがより沸く。
そんな理由からかなあ。」
三年間の研修を終え、県へのお礼奉公という形で、石垣島の病院の小児科で一年間働いた。
その後瀬戸に戻り名古屋大学の小児科医局に入局したが、沖縄でアメリカンスタイルの
オープンな医療を経験したあとだけに、日本の大学の医局は窮屈な物だった。
その頃には小児神経の専門医を目指していたので、勉強の場を日本よりアメリカに求めた。
小児腎臓病の専門医である沖縄の病院時代の恩師に相談した。
「アメリカの病院と言ってもピンからキリまである。どうせ行くなら良い病院に行かないと、
こき使われるだけで勉強にならない。日本人がアメリカの良い病院で勉強するのはとても難しい。
無給ならとってくれるだろうと言う先生のアドヴァイスに従い、紹介状を書いてもらい、
ワシントン大学セントルイス小児病院で無給の小児神経の専門研修医としてアメリカに渡りました。
渡米する前に一生懸命働き資金を蓄え、二年間は無給でもやれる計画で行ったのですが、
一年たつと、これは二年も持たないことがわかりました。でも、これで帰ったら勉強が不十分だから、
給料を貰いながら勉強が出来るところを探したのです」
見つけた病院はバーミングハムにあるアラバマ大学のアラバマ小児病院。
有給研修医として3年を過ごしたあと、ハーバード大学ボストン小児病院で
小児神経の中でもさらに専門のてんかんを一年間勉強した。
先生の専門である小児神経には、熱性けいれん、てんかん、頭痛、
ADHD(注意欠損多動症候群=落ち着きがなくじっとしていられない)などがある。
日本では偏頭痛の子どもはあまりいないがアメリカでは遺伝的な原因か、ずいぶん多いとのこと。
ここでは小児神経の専門医としての研修は終えたが、アメリカで一般小児科の研修を終えていないので
アメリカで専門医としての受験資格が足らない。しかし先生の場合、
沖縄でハワイ大学プログラム下で研修を受けたため、それがクレジットとして認められた。
さらに上級レジデント(研修医)として十分知識を有しているかを見るアメリカ小児科学会の試験に合格したため、
普通三年の研修期間のところ、一年でいいということになった 。
一年間の一般小児科の研修はピッツバーグのマーシー病院で終えた。
これでアメリカでの一般小児科と小児神経科の専門医の受験資格が出来た。
その頃にはアメリカで医師として 働く決心をした。
ただビザの問題で一応日本に帰り、愛知県の病院で二年間働いている間、ビザを取得することができ、
再びピッツバーグのマーシー病院で働くことになった。
「ピッツバーグで医師としてやっていたのですが、
この地で永住するには、僕にも家族にもきついかなと思い始めました。
ワイフは沖縄生まれで沖縄で看護婦をしていました。アメリカに来てから何度も引っ越しをしたけれど
、永住するなら、やはり日本に近いところ、日本食もあるところですよね。
それでハワイに移り住むことになったのです。ワイフなど町を歩いていても、
『この花は沖縄にもあるわ』と言いながらハワイに来たことを喜んでいます。
ハワイはいろいろな面で日本とアメリカの中間という感じがします。
たぶん 、本土にいたアメリカ人にとって暮らしにくいかもしれませんが、
アジア人、特に我々にとって一番いいのはマイノリティではないこと。
米本土にいると、いつもマイノリティで異国に住まゎせてもらっているという感覚でした。
物価、収入、広さを考えると米本土がいいけれどハワイにはそうした欠点を補ってやまない良いことが沢山あります。
でも縁っておもしろいですね。僕が研修に沖縄に行かなければ、ハワイに住むこともなかったでしょう。
たぶん、日本のシステムの中でお医者さんとして関連病院を点々としていたか、開業をしていたか・・・。
瀬戸で開業し趣味で茶碗を焼いているとか?
一度アメリカに出てしまうと、日本ではフラストレーションが溜まりました。
日本は個人の責任がハッキリしていない。患者さんも僕の患者ではなくみんなの患者みたいなところがありました。
僕がアメリカのやり方を押し出すとチームワークが乱れる。そうすると自分がどこまで妥協できるかその我慢比べです。」
と二木先生。沖縄を選んだ時から海外に出る運命だったのだろう。
研修医の頃は何時も仕事で時間がなかったが、ハワイに来てから柔術をはじめ、
ときどき道場で汗を流したり、ジョギングをしたりしている。
医師も専門によってそれらしいタイプになるといわれている。
子ども相手の小児科医が強面(こわもて)ということはほとんどない。二木先生も
子どもに慕われる親しみやすさがある。笑うとできる両えくぼ。
指摘すると「子どもの時は可愛いと言われたけれど、今のトシではね」とテレ笑い。
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