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名古屋の新名所であるJR タワ−ズの展望 台に上がり、東の方角を眺めてみると、錦三(きんさん)地区をテレビ搭に向かって 真っすぐに伸び、ひときわクッキリと際立つ道路が一本見える。この道が、我がまち 宮町(みやまち)である。 夕方になりタワ−ズの窓に明かりがともると、宮町の一丁 目から四丁目まで、どこからでもタワ−ズの美しい夜景が楽しめる。 宮町は、今でこそ名古屋一のナイトタウン錦三の一角になったが、もともとは慶長年間に尾張国都清須から移った清須越の町の一つで、その由来は、宮町の東筋に榎(えのき)の古木が茂り、天保年間まで数多くの小枝を出して老齢を保っていたが、だれいうとなく「この榎は、この付近にあった由緒ある神社の社頭(神殿の前)に立っていた に違いない」といい出したのが起こりとなり、神社のあったまち、すなわち宮町と称 するようになったと伝えられている。 宮町を東へ行くと、神社の拝殿跡から命名され た神楽坂を下って駿河町、さらに川名、八事方面につづき、先は長野県飯田まで続いた。 飯田街道(今の153号)として人の往来が絶えなかった宮町は、早くから町家(商 家)として発展し、名うての旧家、名門、豪商をはじめ、彫刻家や俳優などがめじろ押しに住んだという。 特に、俳聖の松尾芭蕉は、故郷の伊賀上野から江戸に向かう途中、わざわざ元禄年間の数年をこの宮町で過ごし、名声をしたう俳人が続々と門をたたき、その俳諧集は「冬の日」として後世に残されたことで新しい”蕉風”が確立され、テレビ搭の北に蕉風発祥の地の句碑がある。 明治以後も、宮町はその伝統を保ちながら問屋町として長らく栄えたが、今は時代の流れとともに問屋や商店が消え、徐々にレジャ−ビルにとって変わり、錦三歓楽街の一翼をになう町になった。 現在、約80の会員が宮町親和会(みやまちしんわかい)という名の町内会に加入しているが、そのうち20世帯近くは今でも宮町に住み、錦 三の11ある町内では最も人口密度の高いまちとして錦三の他の町内から羨ましがられている。 錦三に遊びにくる老若男女の皆さん! 錦三の北端、桜通りの一本南に、いまでも歴史と由緒に充ち満ち、 恐れ多くもかしこくも、宮町という気高い名前を名乗るまちが 現存することを知ってもらえたでしょうか? 今度、ぜひ宮町を歩いてみて下さい。 |